仏のことばを読む六. 般若心経 その24
無有恐怖とは文字通り「恐怖がない」ことですが、この恐怖の意味は判然としません。梵語では「おびえる」「おじけづく」といったニュアンスが読みとれます。実は怯え、怖じ気づくことは、般若経ではしばしば空性の真実を教えられた修行者に起こる心理として説かれます。言語の虚構をあばき、日常の思い込みを徹底的に否定する表現が連(つら)ねられ、空の世界が示されると、聞く者によっては自分の日常生活が否定され、自分の拠り所を見失った思いになり、そのために怯え、怖じ気づくとされます。そういった修行者はすべてが無くなると思い込み、修行を断念してしまったりすると般若経では忠告されています。すべてが無になるのではなく、智慧を働かせればこの世界が言語の虚構によってできあがっていることに気づき、仏の真実を理解できるように修行に励むことができます。
それが恐怖のないことといえるでしょう。
遠離一切顛倒夢想のうち、遠離とは「遠く超え出て離れている」ことを意味します。何から遠ざかっているかといえば、一切顛倒夢想からです。
顛倒夢想は顛倒と夢想と読めますが、梵語では「真実とは逆の誤った考え」という意味の一語になっています。ですから漢訳も顛倒だけでよいのですが、意味を強めて夢想を付け加えたのでしょう。また漢訳には一切とありますが、梵語と玄奘三蔵の漢訳と伝えられるものには一切がありませんが、現在各宗派に流布している経典には一切が付いています。玄奘三蔵を宗祖として尊崇する法相宗 (奈良の興福寺や薬師寺)では玄奘三蔵を敬い、一切を省いてお唱えしています。
さて顛倒とはひっくり返っていることを意味します。
釈尊はこの世界を無常・苦・無我・不浄と教えました。ところが凡夫は自分の生きている世界に執着し、それがずっと続くと思い込み (常)、楽であり、我があり、浄らかであると勘違いし、悲しい現実に直面して悩みます。この常・楽・我・浄を四顛倒といいます。そのほかにもさまざまに顛倒の内容が説かれています。
夢想は夢の中の思いといった意味です。大乗仏教では私たちの生きている世界は幻の如く、夢の如く (如幻如夢)と受け止めます。夢や幻想は真実に気づいていない状態です。私たちの日常生活での思いこそ夢想といえるでしょう。般若経に基づけば、それは言語による虚構の世界であるからです。