仏のことばを読む七. 光明真言
この真言について詳しく調べますと、大変に難しい問題があります。江戸時代の僧侶たちも真言宗の教理に即してさまざまな解釈をしてきました。また近代の学者たちからもいくつもの解釈が示されました。しかも近年になって梵字(サンスクリット)の文献がチベットで発見され、新しい知見も出されています。このような研究を検討すると、インドと日本では光明真言の信仰に大きな相違があったと予測できます。死者供養のためにこの真言が唱えられたのは不空三蔵によって中国に紹介されてからと思われます。
日本で死者供養のために唱えられるようになったのは平安時代末期の頃からと思われます。そして、光明真言をくり返し唱えることで死者の浄土往生を願ったようです。このくり返し唱える儀礼が流行し、浄土教の拡がりで阿弥陀信仰が盛んになると、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏が主流になりました。このように浄土教の念仏との関係も深く、日本人の死者供養の儀礼の中に深く組み込まれました。
この真言を和訳することは難しいのですが、一応の私訳を示しておきます。
オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラハリタヤ ウン
オーン 空しからざる 遍照尊よ 偉大な姿をして 宝珠と蓮を持つ尊よ 輝きたまえ (教えを)廻らせたまえ
冒頭のオンはインドでは聖なる音とされ、祈りの最初に唱えられることは前に述べました。江戸時代の学僧浄厳(じょうごん)はこのオーンという音を、大日如来のすべての功徳を含み持つ真言と理解し、その後のアボキャ、ベイロシャノウ、マカボダラ、マニ、ハンドマをそれぞれ金剛界曼荼羅の中に位置づけ、大日如来とその変化した現れである曼荼羅の仏たちの壮大な救済の働きととらえました。大日如来がそなえる仏の究極の五つの智慧が光明を放って、死者の救いのために働くとされました。この考えに基づいて、僧侶が光明真言を唱える時、右手をあげて五本の指を開くのは五つの智慧の光明が真言とともに死者に及ぶことを願っているのです。