真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む一. 懺悔文   その3

 そこで「我昔より造る所の諸悪業は皆無始の貪瞋癡による」と告白します。
 この文中の「無始」とは「始まりのない」という意味で、生死をくり返す無限の輪廻のことです。次の「貪瞋癡」は代表的な煩悩、根本的な煩悩のことです。
 生まれ死にをくり返しながら無限の輪廻の世界を生きてきた私たちは、煩悩にまとわれ続けて悪業を生み出してきました。それゆえ悪業を反省するためには、自分の内にある煩悩、とりわけ根強い煩悩を見つめ直さなければなりません。
 煩悩は数多くありますが、ここでいう「貪瞋癡」はとりわけ強く心に染みついており、すべての煩悩の根本と考えられます。そして、これらの煩悩は仏教徒として清らかな生活を送る障害となる害毒と考えられるので三毒ともいいます。

 まず「貪」とは貪欲(とんよく)ともいわれるむさぼり、激しい欲求のことです。物欲や異性への執著(しゅうちゃく)はこの貪欲によるとされます。貪欲こそ人間を惑わす根本であることは誰でも納得できると思います。この世界は物欲の世界です。あれが欲しい、これが欲しいと欲求をかき立てながら人間は生きています。そして、欲望に支配され、心を汚(けが)し、自分を見失うことになります。とりわけ現代のような巨大な消費文明の世界は欲望をかき立て、お金や物を限りなく求めてさまよう人間を生みだしています。このような欲望の世界を冷静に見つめ、私たちの生活を反省することが大事でしょう。

 次の「瞋」は瞋恚(しんに)ともいわれる怒りや憎しみの心のことです。他人との軋轢(あつれき)は誰にでもあるでしょう。しかし、ほんのわずかな他人への思いやりもなく、激しく相手を憎んだり、怒りをぶちまけることは厳に慎(つつし)まなければなりません。しかし、世間で起こる事件は往々にして瞋恚の現れで、それが絶えることなく人間が生きている現実を直視し、反省しなければなりません。

 第三番目の「癡」とは愚癡(ぐち)といわれ、愚(おろ)かさのことです。私たちは仏から見れば誰もが愚かです。愚かであるからこそ、苦しむのです。なぜでしょうか。それは現実をありのままに受けとめられないからです。我(が)を張り、苦しみの原因を冷静に見つめることを忘れて悩みます。仏は因果の道理を教えています。苦しみや悩みには必ず原因があるからこそ、結果として悩み苦しむのです。その原因と結果を冷静に見つめる知恵が欠けていることが根本的な愚かさです。理屈では分かっていても、因果の道理をわきまえない行動をしがちな自分の愚かさを見つめ直さなければなりません。

 以上の三毒ともいわれる激しい煩悩が身業(身体活動)・語業(言語活動)・意業(精神活動)によって悪業となることを「身語意従り生ずる所なり」と自覚し、自らの業を見つめ直すことが大事です。そして、悪業によってもたらされたあらゆる過ちを、素直にすべての仏に告白するために「一切我今皆懺悔したてまつる」という心からの反省の告白となるのです。
 このように仏の前で悔い改めることを誓い、心を爽やかに、そして清らかにすることが仏教徒として生活する出発点になります。仏壇の前で毎朝声に出して懺悔し、清新(せいしん)な気持ちで一日を始めるよう心がけたいものです。

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