真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより) No.86

 ひとりでは生きられない。それは誰でもわかっていることです。私たちは家族や友人、親しい人をはじめ多くの人たち、もっと視界を広げれば、衣・食・住すべてからさまざまな恩恵を受けています。さらに拡げれば自然。陽の光とか、雨、風といったものからも、物理的にも気持ちの面でも日々何かしら影響を感じています。良い天気で清々しい、風の流れが心地よい、雨の雫に心潤うことも……。草花の彩色に移ろいゆく季節を実感することも。人は生き物です。生きていれば五感から色々と感じられ、刺激されることで、自分らしさを育み、日々成長を続けます。それでも今の情報化社会と科学技術の進歩は、便利で快適すぎる世の中を生み出し、ひとりでもあまり苦痛を感じない生活を送れるようにしてしまいました。一刹那、表面的には……人づきあいは面倒くさい。その気持ちもわかります。でもその一方で、人とのつながりによって、勇気や希望を抱けることもあるのだろう……と思います。
 

 自分のことや家族、家のことはとても大切です。自分の支えとなるものですから、そのことを一番に考えることは当たり前です。誰もが自分のことを考える、言いかえれば自分のことしか考えられない。他人にまで頭が回らない、心を配れない、人とはそういう性質です。ただ、年に何回かは自分ばかりでなく、周りのこと、他人のことを想いやってみませんか? その機会が吉祥院では毎年夏に行われる7月5日の大施餓鬼会です。
 

 さて、施餓鬼とは何でしょう? 餓鬼に施すから施餓鬼会。吉祥院は「大施餓鬼会み魂まつり」という法要にて餓鬼に施します。餓鬼とは餓えた鬼、つまり食べ物を何が何でも欲する鬼のことです。この鬼はお腹がすき過ぎて悪さをします。どんな悪さか?亡くなられた故人の魂が仏に成るための修行を邪魔します。ですから、お釈迦さまは餓鬼に悪さをしないよう、修行の邪魔にならないように法(教え)を授けます。つまり、餓鬼に「食を施す」というのが、施餓鬼会という法要の由来です。
 餓鬼という言葉にはもう一つ意味があります。それは「供養されたいけれど供養されない魂」です。例えば、震災や災害で亡くなられた霊や魂は、ご遺体が見つからない、一家がすべて災害に巻き込まれると、供養されないみ魂となります。施餓鬼会では有縁無縁の一切の精霊に供養します。自分の家のご先祖さま、亡きみ魂のみならず、無縁の仏さまのご供養も丁寧に行います。
 法要の最後には「普回向」というお経を皆さんとお唱えします。
「願わくはこの功徳をもって、あまねく一切に及ぼし、我らと衆生とみな共に仏道を成ぜんことを」
 一年に一回の大施餓鬼会。
 大勢のお坊さんと一緒に皆さんも、自分のことだけでなく、有縁無縁の精霊の冥福と無事を祈りましょう。
 

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