真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.80

 手を合わせて何に向かってあなたは祈りますか? 願い事が叶うように……、または亡き人のご冥福を祈る。そして、これからの無事を祈り、これまで無事であったことに感謝する。新しい年を迎える時も、自分の大切なことや何かの節目にも、カミ・ホトケに向かって手を合わせ、心を込めて祈ります。でも自分がどんなに頑張っても、一生懸命努力しても自らの力が及ばない、至らないことがあります。「苦しい時の神頼み」「運を天に任す」そんな時は誰にも必ずあるはずです。兄弟や子供の受験や就職、両親や家族の重い病などは特にそうでしょう。
 自分の力が至らない時は、誰もが人知を超えた不思議な力、パワースポット、カミ・ホトケに向かって手を合わせて祈ります。至らない自分を知っているなら、カミ・ホトケの力、ご加護を堅く信じられるのです。毎日毎日、朝には今日の無事を祈り、夕方には無事に感謝します。
 

 祈る心と感謝の念は、日本人がずっとずっと自分の内に育んできた、感性が鋭くて、心の豊かさの源泉となるものです。そしてそれは、お家にあるお仏壇に毎日向かって手を合わせ、祈るという日常から生まれ、育まれるのです。そのお仏壇には亡き人、さらにはご先祖さまの魂が位牌となってお祀りされています。その位牌の奥には、仏さまや真言宗のお祖師(弘法大師や興教大師)さまが座して、亡きみ魂は仏さまの説法をいつも安らかに聴いています。その仏さまの前で、亡きみ魂のご冥福を祈ります。同時に毎日、今日の無事を祈り、一日の無事に感謝します。
 自分の至らないところは、仏さまや仏と成ったご先祖さまに助けてもらい、力を貸してもらう。何か分からないけど、自分が守られていることを感じられれば、ホッとして落ち着き安心することができる。祈りと感謝をくり返し積み重ねると、いつの間にか自然とそうなります。
 

 ご供養するとは、同時に自分の心を養うことです。ご供養する相手は仏さまや亡きみ魂ですが、ご供養することは善き行いを重ねることになります。それはなぜか? 手を合わせて祈り、感謝するのは、自らのためではなく、他のためにする訳ですから善き行いです。何も見返りを求めず、他のために何かを為す。その行為はどこまでも清らかで、何よりも尊いものとなります。
 弘法大師空海さまの言葉に「身は花と共に落ちれども、心は香りとなりて飛ぶ」とあります。美しい花はいつか枯れても、そのかぐわしい残り香は、いつまでも飛んでゆく。人の身体も死を迎え肉体は滅んでも、亡き人の心はいつまでも記憶に留まる。
 あなたがお仏壇に手を合わせて、祈りと感謝をくり返せば、その心は安らかで豊かに花開き、かぐわしい香りをずっと飛ばすでしょう。
 

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