真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.74

 あなたは満ち足りていますか? 今の暮らしや仕事や人間関係に満足していますか? 毎日の暮らしに何の不満もありませんか? モヤモヤするものを抱えていませんか? 「足るを知る」という言葉は「少欲知足」つまり欲を少なくして、満足することを知るというわけです。つまり欲が深いと今の幸せも実感できない、欲しがってばかりだと今の自分を見失うことにもなります。

 あれも欲しい、これも欲しいと欲しがって、無いものねだりする。それは飢えた鬼、つまり“餓鬼さながら”というわけです。お盆の頃にお寺で行う施餓鬼会という法要は、この餓鬼に施しをして、欲しがる気持ちを鎮(しず)めるためのものでもあります。この人の世の中も、欲しがるばかりの餓鬼がうごめいているのでしょうか?



 

 癒されたいと願う心は、足るを知ろうとしない欲が感じられます。満足できない自分が癒されたいと思うのでしょうか? 仕事や生活に追われてゆっくりする暇がない。じっくり考えられない。カラカラに渇き切っている。疲れてヘトヘト……潤いが欲しい。そんな時、話を聴いてくれる、やさしい言葉を1つかけてもらえば癒されますよね。もちろんカラカラに渇いている時には、冷たい一杯のお水、できればビールでノドを潤わせられたら、一瞬は息がつけるでしょうけど……。

 渇愛という言葉は、身体も心も渇き切っている状態をいいます。渇愛は、愛が渇き切っている。それなら、やはり人は愛がなくては生きられないということでしょうか。心までがヒビ割れるほどに渇いている。癒されない状態よりも、渇愛はもっと深刻かも知れません。癒されないままにしていると、心から悲鳴が聞こえてきそうですね。




 自分の理想のカタチが誰にでもあるでしょう。こんなに情報があふれた世の中では、自然と心は理想とするものを次から次へと欲しがります。この世の中は、あなたの心をどんどん欲望にかり立てて、心は際限なく欲します。潤っても浸(ひた)りきっても、まだ潤いを欲して、現実とはかけ離れ、等身大の自分を超えてまだ満たされたいと願います。今はこのままでも十分で、何の不自由もないのに、まだ渇いている。潤いたい、癒されたいとなんとなく感じます。

 目に見えるものや手に触れられるものに対して、足るを知って欲を少なくするのは、不可能なのでしょう。あり得ない幻想に欲望をかき立てられ、何か失っていると思い込む。それで幻想が途切れて現実を目の前にした時には、喪失感を抱き、悲しみ苦しみに塗(まみ)れるのです。『大日経』に説かれる「如実知自心」は実の如く自分の心を見つめて知ること。
 なかなか難しいことですが、この情報にあふれた社会には、最も必要不可欠なことと切実に感じるのです。


 

風信(かぜのたより)一覧