真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.61

 どうせ生きてゆくなら、楽しみたい。そりゃそうですよね。生きゆくのに、苦しいより楽しいほうが善いに決まっています。それなら、楽しく生きるにはどうすればいいのでしょう? 本当に楽しく生きてゆくことなんてできるのでしょうか? 時に、オリンピックや何かスポーツの大きな大会などで、アスリート(選手)が試合や勝負を「楽しみたい」って意気込んでいるのを目にしたことがあります。ただ真剣勝負の瞬間に楽しむ余裕なんてあるのでしょうか? 楽しめるって、それは思い過ごし、幻想のような気がします。終わってから、ふり返って楽しめたって感じることはあるでしょうけど……。
 もちろん、能力が傑出したアスリートなら圧倒的な実力差で、勝負を楽しむことができるかも知れません。でも、勝負がどちらに転ぶかわからない緊迫した場面で、楽しむことは叶うのでしょうか? きっと緊張や重圧、期待に苦しみ、逃げ出したい気持ちが反転して「楽しみたい」って言葉になってしまうように思えるのです。普段どおりに戦えば勝てる。それだけのトレーニングを重ねてきた。そんな自分を信じて、戦いに集中して懸命になれば結果は自ずとついてくる。しかし、重圧や期待という目に見えないプレッシャーが心や身体を縛り付けて、悲しい結末を招くこともしばしば見受けられます。
 諸行無常、一切皆苦と説いたのはお釈迦さまです。「もの皆すべてが移ろいゆく、だからこの世界は苦に満ちている。」その洞察力は恐ろしいほどです。私たちはいつも「今のこの善い状態がずっと続いて欲しい!」と切に願います。子供が言うことを聞いて欲しい。いつまでも若いままでいたい。それでも、そんなことがいつまでも続くわけがありません。思いどおりにはなりませんよね。それを「苦」というわけです。
 人は誰でも、善い時もあれば悪い時もあります。晴れたり、雨が降ったり、風が吹き荒れたり。自然界も、そこで暮らす生きとし生けるものすべて同じ運命にあります。アスリートも絶好調の時もあれば、一敗地にまみれることもよくあることです。いつもベストを尽くせるなんて……もっと気を楽に、できない自分もありのままに受け容れてみたらどうしょう。
 人間は有史以来、宗教を生きる支えとし、自分のより所としてきました。自分の弱さ、醜さ、一人では何もできない存在と、それこそ等身大の自分を受け容れ、カミ・ホトケに自らを委ねてきたのです。朝に夕に聖なる存在と向き合い、いのちある者の無事を祈り、無事に感謝する。目に見えない、手に触れられない存在を観じ、心を寄せて信じきる。いつも自分を支えて励ましてくれる。孤独に成り得ない存在が神であり、仏なのです。仏にいつも掌を合わせて祈る。この瞬間を積み重ねてゆくと、あなたには生きる力が生まれ、いつも安らかな心を感じられるのです。自分を支え、より所となり、信じられる存在。それが仏さまです。

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