真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

李白


 
夜半に、ふと目を覚ますと、寝床のそばまでが明るく照らされている。庭に降りた霜が、きらきらと光り輝いているのかと思い、よく見ると、みごとに美しく一面を照らしている月の光であった。しばし、山の向こうに輝く月の美しさに見入っていると、いつか、しみじみと故郷に想いをはせていた。 
 
 心を揺さぶられるような何かに遭遇しない限り、私たちはなかなか、自分を省みることはできません。自分の心が、限りなく優しくなれること。他人の優しさに触れて、心が熱く高鳴ること。そういったことが、日々の暮らしの中に実感できる機会は、ことさら少ないのが現実でしょうか。
 けれども、どんなに忙しくても、どんなにしんどくても、忘れない、忘れられない、忘れたくない。そういうものが、私たちの心の奥底にひそかに眠っている、いや、息づいているとは思いませんか。たとえばそれが、季節の移り変わる時や、楽しかったり悲しかった時に、心に鮮やかによみがえることがあるはずです。
 李白の心から語られるものは「人の心の想いの深さ」と受け止められるのです。誰もがいつも置き去りにしてしまう、忘れかけてしまうことを、自然の風景の中に、鮮明に思い出させてくれる気がしてなりません。同じ時代に生き、友人でもある杜甫(とほ)が「憂愁(ゆうしゅう)の詩人」と評され、誠実な人柄と言われたのに対して、「情熱の詩人」「剛穀(ごうこく)の人」と謳われた李白の詩は、心に何かしら熱いものを思い起こさせてくれます。理屈や計算では成り立たない、目には見えなくても、確かに存在するものがある。心を揺さぶられる機会に、李白は誰よりも敏感だったのでしょう。
 時代を超えて、国境・文化を越えて、「心を揺さぶる想い」「人の心の思いの深さ」は、変わることがないはずです。けれども、その思いの深さが高じて、月光を地上の霜と見誤るように、想いの深い相手を誤解していることも多いのではないでしょうか。忘れられない人、忘れたくない大切なもの、いまの自分が何に支えられているのか、情熱にあふれつつ、鋭敏(えいびん)にしっかり見極めたいものです。

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