真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.7

 目は口ほどにモノを言う。どんなに離れていても心は通い合っている。そんな言い回しを時に耳にしますが、あなたはどう思いますか? 「そんなことあるわけない」と思うか「そういうことも確かにある」と思いますか? 日常の、普段の生活の中に埋没しているなら否定的になりますかね。ちょっとゆとりのある時、周りがよく見える時は、うなずけるのでしょうか? これは、信じられる、信じられていることに結びつくとは思いませんか?
 信じられない自分に、いつ頃からなってしまったのでしょう? それは、人生の経験上、やむを得ずそうなってしまったのか? 誰かに裏切られたり、自分をいつわったりしたからなのか? でも、見つめあっているだけでは、理解し合えない、信じられないし、逢う機会が少なければ、少しずつ理解や興味は薄れていくのも、当たり前のような気もしますね。齢を重ねて、経験を積んでいくと、いろんなものが見えてきて、あきらめやすくなることも、ありますよね。でも・・・・、そういう自分に何か物足りなさを感じることも事実かな?
充足感・満足感を実感したい・・・・けど、できない。何かを信じていたい!って、心は叫んでいませんか?

 信じられるには、どうすればいいのでしょう? 何が必要なのでしょう? 信じられるのは、なんでだろう? それは、理解し合えているということが、その底に流れているのでしょう。だから、信じられる。では、理解し合えるために、何が出来るのでしょう・・・・? それは、あなたが大切に想う人と、何を話してきたか? 自分をどこまでさらけ出してきたか? それに尽きると思うのです。少しくらい、考えや意見が違ったとしても、自分の思うことをありのままに語ってみる。自分が向き合っている相手と、何が、どこが違うのか? その距離を感じられて初めて、理解が始まる。信じられる気持ちが芽生えるのではないでしょうか?
 衝突することを恐れていては、心からの理解は得られません。信じられるはずもありませんね。話してみましょう! 今からすぐに、なんでも、向き合って、あなたの思うことを語りましょう。違いがわかって、初めて相手を知ることができる。だから、信じられる。だからこそ、目で語り合える空間が生まれるんです。

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