真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.16

 長生きをしたいですか?誰でも、死にたくない、少しでも長生きしたい、そう思うことはあるでしょう。少しでも生きることを享受したい、このいのちが今のままであって欲しい、それは、この世に生を受けた人間なら誰もが抱く欲求だと思います。でも、それは、恐らくは人間だけが抱く感情、欲求かも知れません。他の生きものは、寿命を少しでものばしたいなんて思わないでしょう。むしろ、自らの寿命を受け容れ、死期が近づいたことを予知する能力があって、死に場所におもむくという話を耳にしたことがあります。
 自分の寿命を自ずから知っている。自分の死がいつかは訪れることを受け止められる。それは、いまの私たちには、むずかしい気がします。なぜ、むずかしいのか? これだけ、生の快楽を知ってしまった生き物には、いのちあるものがもともと持っている生命の尊厳とか、生と死の一大事とか、自分のより所となることは、見にくいところに押しやって、心地良さばかりに溺れるくらい浸っているからです。
 いのちとは何でしょう?一言で「いのち」と言っても漠然としすぎて、具体的にはほとんどイメージできませんよね。「いのちは大切だ」とよく耳にしますが、それじゃあ、なぜ大切なのか?と問われたら、はっきりした答えはなかなか思い浮かびません。
 古来より日本では「いのち」は、霊の息という意味がありました。霊性が体の中で息づいているということです。また、万葉集の枕詞では、いのちは「たまちはる」「たまきはる」と言うそうです。この「たま」は魂のことで、魂がやって来て体中に極まる。体中に満ち満ちる、という意味だそうです。つまり、いのちとは、霊魂が体の中で極まっている、息づいている状態ということになります。それなら、その魂は、極まり方、息づき方がそれぞれ違うわけで、個性的であるわけです。自分らしい魂が息づいていることになります。個性を持ったものなのだから、いのちは生かし切ることが大事なのです。
 いのちを大切に扱えば、心は活き活きします。限りあるいのちだから、粗末そまつにしようなんて思わないはずです。いのちの尊さがわからない、自身の中に息づいている魂が感じられないから、いのちを粗末にするのです。いのちが失われても一大事と思えないのです。長生きをしたい、死にたくないという気持ちの裏に、快楽をもっともっと貪りたいという欲求があるなら、いのちは、どれこまでも粗末に扱われます。自分以外の他のいのちをモノとして見ることができます。臓器を移植したり、最先端医療で自分の臓器を作り出す考えも、同じところに根ざしています。でも、弱った臓器を新しいものに変えてみても、そこに何があるのでしょう? 人間50年と謳われた時代から寿命が30年延びても、その30年に生きがいや望みが持てなければ生ける屍しかばねとなってしまいます。この身体に息づく魂に限りがあるからこそ、いのちを大切にして、いのちを全うさせたいと思うのが、生きものの自然な姿なのですから・・・・・・

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