真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.50

 ため息をつく、息がつまりそうになる。最近、そういうことありませんか?この現代社会とは一体どんな社会なのでしょう。時間に追われ、情報の波に埋もれてしまい、様々な出来事が心に留まることなく流れ、過ぎ去ってゆきます。判断したり、理解する間もなく、次から次へと誰かの言うことも、メディアからの情報にも右往左往させられるばかりです。体の中に印象深く刻まれるもの、記憶に残るもの。そんなふうに心が熱くなったり、ときめいたりする、じっくり何かを味わう時間はなかなか実感できません。目の前のことをひとつひとつ見つめられる。じんわりと心に染み入る感覚に触れられる。そんな瞬間を積み重ねられないと、息を抜けない、緊張をほぐせなくなってしまいます。
 息をつく間もない、だから息を抜きたくなる。つまりそれは癒されないことになるのでしょう。だから癒されたい。そのことを心理学的には“全体性の喪失”なんて言ったりするそうです。平たく言うと、本来の自分ではない、何かが足りないって感じている状態のことです。だから、ため息をついたり、プーって息を吐いて緊張をほぐそうとする。そんなシーンをスポーツ中継とかでアスリートがやっているのを目にすることがあります。
 呼吸は、私たち人間にとって何よりも大切なものです。いろんなものが積み重なって気が重くなる。いざ勝負という時になると心拍数が上がり呼吸が早くなる。だから緊張を和らげるために深呼吸する。少しでもリラックスして、平静な自分を取り戻そうとする。そんなふうに息を抜きたくなる日常が続いてゆきます。
 いのちとは何でしょう?いのちとはもともと「息の霊」という意味だそうです。霊が息をするから、いのちがある。霊(魂)がやって来て体中に極まる、それがいのちなのです。呼吸することはいのちを息づかせること。私たちは普段、無意識に呼吸しています。もちろん、呼吸しなければ人は生きていられません。生きるために呼吸します。逆に言えば、呼吸するから生きていられる。いのちを維持できる。そして、私たちは息をして酸素を体内に取り入れ、体中の細胞を活性化させているのです。
 つまり呼吸を深くすることで、私たちは気持ちが落ち着き、身体の感覚(五感)が鋭くなります。心が安らかになって、物事をしっかり見つめたり、見極められるようになります。仏教を弘めたお釈迦さまも、正しい姿勢で座り、呼吸を深くして瞑想をくり返した末に、悟りの境地に至りました。情報があふれる時代、息苦しくなるこの時にこそ、呼吸を深くしてリズムを整えて、涼やかなる季節に自身を見つめ直したいものです。
 

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