真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

弘法大師 空海


 「私は、どこから来て、どこへ行くのか」という問いかけを、誰もが一度は、抱いたことがあるのではないでしょうか?自分がどのようにして生まれ、死んだ後に、どこに行ってしまうのか?どんなに考えてみたところで、いまの私たちに確かなことはわかりません。「生まれた時も、死んだ時も、そのはじめもおわりも、私たちには、くらくて何もわからない。」 真言宗の宗祖 弘法大師空海、お大師さまは、生と死が、人間の知恵には及ばないところにあることを、このように述べられています。「考えてもわからないのなら、そんな先のことなんか思い悩んでもしょうがない。」でも、いざ、死が自分にとって切実なものとなった時、誰もがあわててしまうのではないでしょうか?
 日々の生活の中で、いまを生きる実感を抱くのは、なかなかむずかしいことかも知れません。生まれ生きることと、死ぬ瞬間に自分の生命が終わり、魂がどこかに行くことは、切り離せない、ひとつの流れになっているのではないでしょうか? 死んだ後に自分がどうなるのか? 私たちの祖先は、古くから、死んだ後に自分がどこに行くのか? その先の世界はどうなっているのか? その死後観念について、バリエーション豊かに想い描いていました。そうした想像力は、いまの私たちとは比べものになりません。
 "not doing but being【何かしてあげるのではなく、ただ、そばにいてあげる】" 家族のひとりが死を目前にしている時、親愛なる人に、あなたはどんな言葉をかけられるのでしょう。医者の治療も、どんなはげましの言葉よりも、最後にはそばにいて、手を握り、抱きしめてあげることが、死に臨む心を何よりも支えることになるはずです。
 自分の死が切実なものとなった時、肉体が朽ち果て、尽きようとする時に、自らの心【魂】のゆくえを思い描けない人は、自らの死を怖れ、不安と恐怖に打ち震えるのでしょう。「生と死の一大事」を考えるのは、死を怖れないばかりではなく、いま、生きている生命(いのち)の尊厳を実感することにもつながるのです。

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