真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

夏目漱石


 この言葉は、もともとは李白の詩文に出てくる「人静同月眠【人、静かにして月同じく眠る】」が正しいものなのですが、漱石が勘違いして半切(はんせつ)に書いた(揮毫した)ものがこの言葉です。そして、この書を和辻哲郎(わつじてつろう)が所有していました。この時のいきさつを和辻哲郎は『漱石の人物』という作品に書いています。ある弟子が、漱石に何か大きい字を書にして欲しいと懇願したところ、「人静同月照」と書き上げました。
 その書の見事さに、居合わせた人たちは感嘆したのですが、弟子の一人が「この字は何かおかしい」と言い出し、漱石自身が李白の詩集を当たったところ、「眠」が「照」に違っていたというわけです。漱石はその弟子の指摘で書き直したそうですが、「しかし、そうなるとまことに平凡だね。」と不服そうな顔をしたそうです。そして、その後、和辻はその間違った書をゆずり受けました。
 和辻哲郎は、この作品の中で「人静かにして月同じく照らす」の言葉は、漱石の晩年の心境を現したものだと言います。「人静かにして月同じく眠る」では単なる叙景(じょけい)を詠んでいるだけ、「照らす」としたところに漱石の人に対する態度や自らの理想が響いている、と和辻は述べています。
 西洋の文化や価値観に圧倒された明治の時代に、その波に飲み込まれることなく、日本人の心の奥底を見つめ続けた漱石。そして、その漱石の姿勢を間近で、しっかりと心に刻みつけた弟子の和辻哲郎。移り行くものを、確かにしっかりと見つめる姿勢は、いつまでも失いたくないものです。

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