真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.9

 傷つきたくない、苦しいのはイヤ。面倒なことはしたくない。そんな欲望にまみれたのが、いまのこの世の中なのでしょうか? 自分が直接、何もしなくても、何でも物事はスムーズに進んでいく。お金を払えば、面倒なことをする必要もなく、汗をかいたり、手を汚すこともしなくていい。清潔でほこりや汚れのない、とても心地良い暮らしができる。いまは、そういう時代だということもできるでしょう。でも……ですよ。その心地良さは、本当にあなたが心の底から望んでいることなんでしょうか? あなたは、いろんな雑菌から隔離された、科学技術というオリの中で、飼い慣らされて、ほどよく心地良さを得ることができていれば、それで満足なんですか? あなたの人生や生きがいは、それで満ち足りるのですか?
 自分で身体を動かして、額に汗して、手が土で汚れて……でも、それは、今どきの「健康ブーム」とは、ちょっと違います。健康のためにからだを動かすというのではなく、辛いことや苦しいこと、面倒なことでも、嫌に思わずにやり遂げる。他人まかせにしないで、自分のことは自分でやる。それが、人間のシンプルな営みなんですよね。毎日の生活の中で、快適さや便利さにどっぷりつかってしまうと、骨身に沁みるとか、味わい深いという感覚、実感をないがしろにしてしまうようです。でも、その感覚が、人の魅力とか深みとか豊かな心を育み、かたちづくってゆくのではないでしょうか? そして、それが、他人の痛みを我がことのように感じたり、苦しんだり悩んだりしている人に、すぐに、惜しげもなく手を差し伸べられるやさしさ、温かみを生み出すことに、きっと、なるのでしょう。

 大いに笑ったり、気のすむまで泣いたり、喜怒哀楽を目いっぱいあらわにしないと、自分の生き方が薄まってきちゃいますよね。自分らしい生きざま、自分にふさわしい死にざま、自分だけにしかできない生き方を実行しなくては、いつまでたっても、いやされない、満ちたりない毎日を、くり返し、死ぬまで続けることになりませんか? 仏教は、「仏の教え」と書きます。教えとは理にかなったものですが、仏教はそれにとどまりません。理(ことわり)に裏打ちされた実践、毎日の暮らしの中に教えをささやかに生かそうとするのです。
 なぜ、生きるのか?なぜ、老いるか? なぜ、痛み病むか? なぜ、死ぬか? 仏教はその答えを自分の日常の中から見つけ出すことを目標とします。どんなにイヤで、避けたくとも避けられない現実。その現実を受け止めて、辛くとも苦しくとも、みんなでささえあい、はげまし合って、乗り越えようとする。そのチカラと、勇気と、信じる心を養うのが、仏の教えです。

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