真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.23

 信じるものは救われるか?と問われたら、あなたはどう答えますか? 信じていれば救われるのでしょうか? それとも、信じていても救われないのでしょうか? 信じるものは救われると考えたい、でも、実際にはなかなかそうならない・・・・・・と思う方もいるでしょう。また「信じていても、いま、救われない人たちが大勢いるのだから、救われない。」 確かにそう考えると救われない気もします。
 「信じる」「救われる」とはどういうことでしょう? あなたには信じられる何かがありますか? 信じられる心を持っていますか? 信じられる何かと、信じられる心は、人が自分らしく生きていく時に必要なものです。何かが信じられれば、あなたはきっと、それを支えに生きてゆけるはずです。信じられる何かとは、自分にとって何よりも大切なもの、かけがえのないもの。自分のいのちと引きかえにしても悔いのないものでしょう。長年連れそったご夫婦、親兄弟、子供、孫などの家族。親友や恩師もそうでしょう。そして、世界中のどんな人たちも、宗教を信仰するのは、自分の支えとなり、よりどころとなるものを求めるから。つまり、カミやホトケも尊いもの、何よりも大切な存在となっているのです。
 神や仏の存在は、救われたいと切実に願う人々の想いの深さ、強さから生まれ、育まれてきたものだと思います。人は誰もが苦しみ、悩みます。やってはいけないことに手を染めて、罪悪の大海に溺れてしまうのです。自分が正しく歩もうとしても、なかなかうまく思いどおりに歩めない。何か支えとなるもの、生きる力を与えてくれるものが必要となります。信じられない出来事が当たり前のように起こるいまの世の中は、信じようとする心を失ってしまった人たちによってもたらされていると言ってもおかしくないでしょう。祈る心と感謝の念は宗教の基本であり、人間が人間らしくある最もシンプルで最も大切な営みです。だから、宗教はどんな時代でも、人の心を豊かにする支えとなってきたのです。救われたい想いがあるから、祈り、感謝します。
 救われたいなら信じることです。信じるためには、相手をよく理解しなければなりません。理解するには、いつも何があっても相手を想い、コミュニケーションをはかるのです。会話のない、心の通わない関係には信頼はありません。だって、人の心も、この世のすべてのものがうつろいゆくのも世の常です。誰もが生まれ死に、死に生まれるのです。心が通い合えば家族の誰もが救われます。互いを支え合い、自分をさしおいて大切に思うものがあるからこそ、人には生きる力がわいてくるのです。これは、家族ばかりではありません。敬愛する人、さらにはカミやホトケにも通じることです。救われたいなら信じること。信じなければ救われません。信じられればきっと救われる。救われないのは、信じきれない心が、より所となるものを求めないで、フラフラとさまよっているからです。ただやみくもに信じるのではなく、信じる相手をしっかりと見つめ、理解する。それが救われるための第1歩となるはずです。

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