毘沙門さまの功徳七福神信仰のはじまり
その1
次に七福神のいわれというのはどういうことか、いつの頃から始まったのかといわれますと、幾つかの話があります。中でも徳川家康公の時、東京に江戸幕府を開いた徳川家康公が自分の先生といいますか、いろんなことを相談していました天海(てんかい)僧正(そうじょう)という方がおりました。この方は天台宗のお坊さんです。川越の喜多院を開いたと言われております。その天海僧正に七福神を勧められてから始まったと一般的に言われております。
さて、徳川家康公は長い間、苦労をして日本を統一し、江戸幕府を開いたわけですが、その徳川家康公が、ある時に相談役であります天海僧正をお招きしました。そして、「私もついに日本全国を統一することができました。今日まで、子供のころから振り返ってみると、辛いこともあった、苦しいこともあった。一体これからこの日本の世の中をどうすれば、みんなが安心して、誰もが心豊かに暮らしていけるようになるのだろうか?私自身も心の支えになるものが欲しいので、どうかひとつご指導をお願いしたい。」とたずねられました。そうしますと天海僧正は「なるほど」とうなずいて、
「それでは、まず一番には、人々が人生を円満に暮らすには、一つには長寿、寿命ですな。長生きをすることが大事であります。」
今度は家康公が
「なるほど、なるほど。人として円満に過ごすには長生きをしなければならないな。これは大事なことだ。うん、うん。」
「それから二つ目は…」
「何、二つ目もあるのか?」
「二つ目は裕福ということがなければなりません。裕福とは物に困らないことです。物に困らなければ長生きをしても楽しいことがあるでしょう。幸せを感じるでしょう。」
「なるほど、なるほど。最初が寿命で次が裕福だな。それでいいのかな?」
「三つ目は人望。人に信頼されることです。長生きをしても、物に恵まれていても、周りの人から信頼され、頼りにされなければ、やっぱり幸福な人生とは言えないでしょう。
「なるほど、なるほど。」
「それから…」
「まだあるのか?」
「四つ目は、その人の生活、心構えが清潔でなければならない。清廉潔白でなければなりませんよ。たくさんお物に恵まれているといっても、その物やお金がみんな袖の下、賄賂とか、不正な手続きで、株でぼろ儲けをするとか、いろいろやっていたのでは、その人に人望だとか、徳は集まってきません。金の切れ目が縁の切れ目というじゃありませんか。ですから自分の生活、心構えを清廉潔白、清潔にすることです。それが四つ目。」
「まだあるのか?」
その2
「まだあるのか?」
「五つ目は何かといいますと、愛嬌です。どうも清廉潔白というと、自分だけが正しい、自分だけが清いと思っている。しかし、『水清ければ魚住まず』と言われておりますように、自分だけ良い子ブリッ子しちゃうと、お付き合いがしにくくなってしまう。『あの人はお高くとまっているわね』ということになりますので、皆さんと遠慮なく、仲良く付き合うのには愛嬌が必要である。皆さんと親しくにこやかにお付き合いすることは大事なことでしょう。」
家康公は、自分の長い人生を振り返りますと、厳しいことが数多くあったわけです。子供のころは人質に取られたり、それから小さい国の殿さまでしたから、大きな国からいろいろな無理難題をふっかけられてきたわけですので、思い当たることがいろいろありました。
「それだけではありませんよ」と天海僧正はつけ加えました。
「人に対してニコニコとしていることも大事だけれども、その次には自分自身を大事にする。つまり自尊心、自分を高めていくことも大事ですよ。いつもニコニコしておりますと、何か人のご機嫌伺いばっかりしているようだ、人のお世辞ばかり言っているようになってしまう。やはり自分というものをはっきししておかなけばいけない。威厳がある、威光があるというように、今日の言葉でいいますと、あの人は貫禄がある、存在感があるなあという意味合いだと思いますが、威厳がある、やっぱりあの人の言うことは一理ある。そういう筋や道理を通せるだけのけじめが必要である。その威光も必要であるということですね。」
「なるほど、よくわかった。」
「最後にもう一つあります。」
「最後のもう一つとは?」
その3
「最後のもう一つとは?」
「最後の一つとは度量が広いことです。大きな心を持って、いろんな立場の人の考えを受け入れる。相手の考えを受け入れて、それを自分のものとすることです。広い心で物事を考えていくことが、円満な暮らしにつながるんです。」
このように天海僧正は徳川家康公に申し上げたわけです。寿命、長生きをする。そして、物に恵まれて、人から信頼・人望を集めて、そして、自分自身の生活は清潔である。なおかつ、人々とは愛嬌を持ってニコニコしてお付き合いをする。しかし、物事のけじめをつけなければならない時には、はっきりと意見を言う。そして、大きな心を持って、つまらないことやおもしろくないことで、ついカーッとなったり、くよくよしない。ゆったりとした気持ちで過ごすことが大事なのだと教えられたと言われています。
その時に徳川家康公は「天海僧正、いま七つ言われたけれども、なかなかすぐには全部覚えられないから、絵に画いてもらえないものか。」そうすると天海僧正は「わかった、わかった。それでは、この寿命には寿老神という服の神がいるんじゃよ。裕福というのは大黒天じゃよ。」と言いながら、寿老神・大黒天・福禄寿・恵比寿・弁天・毘沙門・布袋、この七つの福の神のお姿を絵に画いたということです。その絵を見まして、徳川家康公は「なるほど」とうなずかれました。しかし、天海僧正の絵は、余り上手ではなかったようです。そこで早速、徳川家に出入りしている狩野なにがしという絵師に、天海僧正の画いた七つの福の神の絵をモデルにして、もっと上手に、誰が見ても、「ああ、福の神を拝んで良かったなあ」という絵になるように画いてくれないかと命じて、七福神のお姿を画かせたわけです。そして、それが今度は、お正月に七福神のお寺をお参りするとか、それからご朱印をいただくとか、そういうふうに流行ってきたのです。これが七福神の始まりであるといわれております。