真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む二. 三帰礼文   その4

 自(みずか)ら仏(ぶつ)に帰依(きえ)したてまつる。当(まさ)に願(ねが)わくは衆生(しゅじょう)と共(とも)に、大道(だいどう)を体解(たいげ)して無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。

 「自ら」ということで自発的に、喜んで仏に救いを求めますという気持ちが込められています。そのために教えに従い仏道修行の道をしっかり歩まねばなりません。この仏の示された救いへの道を「大道」といいます。それを「体解」することに深い意味があります。私たちが仏の教えを頭で理解するだけではなく、しっかり身につけた行いをし、身体で修得することが「体解」です。ややもすると理屈で分かった気になるものですが、仏教ではつねに「体解」が求められるのです。そして、身につけた行いはすべて「無上意」に向かう心構えでなければなりません。「無上意」とは「この上ない心のあり方」、すなわち仏の心、言い換えれば悟りの心です。いつしか自分も悟りを開こうという強い思いが「無上意を発さん」という決意なのです。しかも大乗仏教では、その思いを自分だけのものにしません。「当に願わくは衆生とともに」と祈り、すべての生きとし生けるものが、同じように仏道を歩むことを願うのです。あらゆる生命は私を生かしてくれています。輪廻の世界では、ある時には父となり、母となり、互いに命を育む役割を担います。すべての生命が無限の連鎖の中で生きることがこの世界を成り立たせています。そのような生命がそれぞれに、仏に見守られることを「衆生と共に」という祈りの言葉に込めています。
つづく

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